僕には初めての鹿児島という記憶はありません。
物心つく前から、何回も鹿児島に帰省していました。
今回は1996年〜2005年の思春期の男の子と鹿児島の関わりについて書きます。
目次
物心ついた鹿児島の思い出
前回の「年2回鹿児島に行く生活をしていた男の子の物語 1985年~1995年」はこちら↓
僕が11才(1996年)から振り返ります。
祖母が倒れる
僕が11才の時に祖母が脳梗塞で倒れました。
命の危険もあるとのことだったので、急いで家族全員で鹿児島に向かいました。
病院で手術が終わって人工呼吸器を付けて寝ている祖母を見ました。その時の光景は鮮明に覚えています。
祖母は一命を取り留めましたが介護が必要になりました。
父かたの祖母だったので、父は頻繁に鹿児島に行くようになりました。
僕もそれに付いて行くことが多かったです。
夏休みに2週間、鹿児島へ
相変わらず年2回、鹿児島に行く生活をしていました。
中学1年生の時に鹿児島の従兄弟の家に、僕だけで2週間ほどお世話になったこともありました。
霧島市(旧隼人町)で
・朝のラジオ体操(地元の子に混じる)
・地元のプール(すごい深かった)
・イオン(旧サティ)
などに行ってました。
父と男二人旅(東京〜鹿児島)
中学2年生の時(1998年)に父と2人で東京から鹿児島に向かいました。
手段は電車とバスです。
この経験は僕の中で、本当に良い思い出です。
〈鹿児島へのルート〉
①東京〜大阪(夜行列車)
大阪城、通天閣など
②大阪〜淡路島(たぶんバス)
瀬戸大橋、鳴門の渦潮など
③淡路島〜こんぴらさん(バスと電車)
長い階段、讃岐うどんなど
④こんぴらさん〜尾道(電車とバス)
しまなみ海道を風景は子供ながら凄く良かったです
⑤尾道〜博多(新幹線)
博多ラーメン美味しかった
⑥博多〜鹿児島(電車)
山沿い・川沿いの風景
人吉のスイッチバック
※当時、新幹線はまだないので特急など
子供が大きくなったら、必ずやります!
ちなみに3才の娘と飛行機で鹿児島2人旅はしました。(2019年)
鹿児島から少し離れる生活
高校受験や高校生になると、毎年2回鹿児島に行く生活はなくなってきました。
祖父が亡くなる
僕が17才の時に母方の祖父がなくなりました。
たしか94才ぐらいで老衰でした。
僕にとって、実質的に初めての「人の死」でした。
小さい時に祖父母がなくなっていますが、正直あまり記憶がありません。
〈涙〉
初めて祖父のご遺体を目の前で見て、お通夜、葬式を経験しました。
僕は孫を代表して、ひとこと言いました。
号泣したのを覚えています。
母の涙、伯父さんの涙も覚えています。
少し疎遠になる鹿児島
僕は鍼灸の専門学校に進学しました。
鹿児島に2年間、行かない時もありました。
別に鹿児島を嫌いになった訳ではないですが、少し疎遠になっていた時期です。
20才になってお酒はよく飲んでいました。
鹿児島の血筋をしっかり受け継いで、たくさんお酒を飲んでいました。もちろん芋焼酎も飲みまくっていました。
〈余談ですが〉
焼酎=芋焼酎だと思い込んでいました。
関東地方では焼酎=麦や米です。
芋焼酎を飲んでいた両親のせいで、間違えて覚えていました。
まとめ
11~20才は
・濃密な鹿児島(11才〜15才)
・疎遠な鹿児島(16才〜20才)
を過ごした。
思春期ですし、反抗期もそれなりにありました。
ま、振り返れば、そういう時期だったのかなーと思います。
おまけ 美味しさを知った鹿児島
この時期に食べた
・かんぱち
・かつおの腹皮
・芋焼酎
の美味さを知りました。
続きはこちら
離れてからの急接近した鹿児島 薩摩おごじょの出現 2006年~2014年
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